PMDD「陰と陽」の本当の理解

 

さて、前回のブログの続きです。

 

白黒ジャッジの話をする時に、「陰と陽」の話は避けて通れません。

「陰と陽」の本質を知らなければ、「白黒ジャッジ」はやめられませんし、嫌いな自分を受け容れることもできません。

 

「陰と陽」とは

 

 

天地間にあって互いに反する性質を持った二種の気。 両者の相互作用によって万物が造り出されるとした。 太陽、春、夏、昼、火、男など積極的性質を持つものを陽とし、月、秋、冬、夜、水、女など消極的性質を持つものを陰とする。(コトバンク:精選版 日本国語大辞典より)

 

陰と陽は対極しながらも、互いに作用することによってひとつの働きを完成させ、存在を成り立たせるものです。

太陽と月、光と影、朝と夜、男と女など、片方の存在が欠けてしまうと、もう片方だけで存在することはできなくなるのです。

人間の体で言えば、交感神経(日中優位になる「陽」)副交感神経(夜優位になる「陰」)も体の中で互いに作用しあって健康を維持しています。

つまり、「陽」と「陰」はどちらもの存在があってこそ、人間の中で、自然界の中で、そして宇宙の中で成立するものです。

これが、存在の本来の在り方です。

 

実は、自然の一部である人間の私たちの中にも「陰と陽」は存在します。

きっとみなさんは「陽の自分」のことは好きになれるのではないでしょうか。

明るくて、人に優しく、楽しく笑っている、頑張っている、仕事ができる、前向きでポジティブな自分。

 

では「陰の自分」のことは好きになれるでしょうか。

暗くて、意地悪な気持ちを持つ、不安で悲しくて、怠け者で、仕事ができない、卑屈でネガティブな自分。

こんな自分は嫌いだし、見たくもない、できることなら隠したいし、「陰」の自分なんて消えてしまいえばいい。

こんな嫌な自分を受け容れ、ましてや愛するなんてできるわけがないのは当然です。

以前のブログにも書いたように、人は「悪い」とわかっているものを自分の中に受け容れたくはない生き物です。

つまり私たちは、知らないうちに「陰の自分」に「悪い」というラベルを貼り付けて、その自分が出てきたら、必死で隠して、消してしまおうとしている。

 

もし受け入れたくない自分がいるとしたら、その自分には「悪い」というラベルが貼られていないでしょうか。

暗い自分、意地悪な自分、不安な自分、怠け者な自分、頑張れない自分、ネガティブな自分・・・。

まさに「陰の自分」だと感じている自分には「悪い自分」というラベルを貼りつけているはずです。

「陰の自分」に「悪い」というラベルを貼り付けている限り、自分を受け容れることも、好きになることもできない、愛するなんてとんでもないことです。

 

ここで気づくべきなのは、「陰の自分」=「悪い自分」ではないということです。

なぜなら「陰の自分」は月であり、夜であり、影であるというだけなのです。

誰も月を否定し、夜を嫌い、影を否定する必要はありません。

「陰」の存在とは、「陽」が存在するために必要なものだからです。

 

私たちは自分の中の「陰」に対して、自分勝手に「悪い」というラベルを貼り付けて、勝手に嫌いになったり、否定したりしているだけです。

これが、「植え付けられた価値観」や「思考のクセ」によって作られた「白黒ジャッジ」によるラベル付けです。

 

本来「陰の自分」とは、「陽の自分」と融合して、完成した存在として成立するために必要なのです。

その半分の自分を否定している限り、半分の自分で生きていくことしかできないのです。

白黒ジャッジの中で、黒い自分を「悪い自分」として排除し、半分の自分だけで生きようとしている、これが苦しみの始まりです。

月経前に死にたくなる、消えたくなるのはなぜか、答えはここにあります。

 

ところで、陰と陽の図が勾玉の形で中心でうねっているのは、なぜでしょうか?

実は、陰と陽の図は、白と黒が真ん中で「融合している」という意味を持つのです。

つまり、この白と黒は真っ二つに分断されているのではなく、お互いが混ざり合っているという意味なのです。

これが、本来の存在の姿、ありのままの自然な姿です。

私たちも、「陰の自分」「陽の自分」が混ざり合って、はじめて本来の自分、ありのままの自分でいられるということなのです。

 

自分を好きになれなくてもいい、愛する必要もない。

でも、嫌いになる必要はない、排除する必要もない。

ただ、「ああ、こんな自分もいるんだな」と、存在を認識するだけでいいのです。

それが、本当の自分と繋がるためのはじまりです。