自己否定の源は「固定概念」

 

自己否定の源とは、固定概念である。

最近そう思う場面が増えています。

 

「こうでなければいけない」

「こうあらねばならない」

知らない間に私たちの中に深く、強く根付いた「植え付けられた価値観」は、私たちを「ある一定の方向にコントロールするため」には都合よく働きます。

しかし、自分が行きたい方向に進もうとするとき、足を引っ張ろうとするものでもあります。

 

 

「植え付けられた価値観」によりできあがった「思考のクセ」は、私たちの中で「固定された概念(考え方)」となります。

そしてその固定概念は自分の中で「先入観」となり、自分を見るとき、他者を見るとき、社会を見るとき、世界を見るときに、ありのままをありのままに見られなくしてしまう「バイアス」となってしまうのです。

 

先入観がある目で自分を見た時、他者を見た時、そして世界を見た時、それが「良い」のか「悪い」のか、私たちは知らない間に分断してしまいます。

それは自分に向けて、他者に向けて、世界に向けて銃口を向けて生きているのと同じ。

常に「悪い」を見つけてはその存在を消そうとして生きているのと同じです。

 

 

自分は「悪い」にならないように、いつも何かに怯え、他人の視線や言葉にびくびくしながら、自分は社会の中でうまくやっていけているか、常に誰かや何かと比較し、見えないゴールに向けて走り続けているようなもの。

それが、あなたの中に幸せを生むでしょうか。

ある一定の満足感は得られるかもしれない、けれどそれは持続的でしょうか。

 

少しでも、自分はうまくやっていけていない、周りより劣っている、平均以下、自分は間違った選択をしている、などという考えがあなたを支配したら?

そんな自分を肯定できるでしょうか。

そんな自分を好きになれるでしょうか。

 

すべては私たちの中に根付く「植え付けられた価値観」からはじまります。

知らない間に、自分以外の何者かに植え付けられた価値観は、決して自分の価値観ではない。

それを自覚した時にはじめて「自分の価値観」は何かを探し出す旅に出られるのです。

 

 

ありのままの存在をありのままに見る。

自分という存在をありのままに見る。

そんな旅がはじまるのです。

 

 

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