他人という集合体の意識
世の中は、秩序や道徳を維持するため、ある一定の善悪、ある一定の正誤というもので成り立っています。
それは、多数の人が同じ社会に生きていくための共通認識でもあり、共通のルールでもあるのですが、それは時に私たちを「良い」か「悪い」かに分断してしまう刃にもなりうるのです。
特に日本のような同調意識が色濃い社会においては、地位や立場、収入や学歴、職歴などの社会的バックグラウンドさえもが、平均値というひとつの共通認識でジャッジされてしまう傾向にあります。
社会的バックグラウンドだけでなく、結婚しているか、どんな家庭環境か、子どもは何人いるか、どんな服装を着て、どんな車に乗っているかまで、個人的なバックグラウンドにまでその影響が及ぶこともあります。
その、ある一定の社会における平均値は、時にそれが「正しいものだ」という認識を深く私たちの中に刻み込むのです。
そして「社会の平均」=「正しいもの」という認識が生まれた瞬間、人は正しい生き方を求めるあまり、自分ではない何者かが決めた共通認識の中で生きていくのです。
これが、自分を苦しめるはじまりです。
冒頭でも書いたように、社会をうまくまとめて大勢が同じ社会で生きていくためには、平均的な共通認識やルールは必要です。
しかし平均的な共通認識が正しいと理解され、個人の生き方に根深く影響した途端、それはもはや社会の求める人を生きているだけで、自分らしく生きているとは言い難いものになってしまうのです。
社会の求める人を生きるということは、他人という集合体が求める人を生きるということです。
他人という集合体の求めるもの、それは他人の人生を生きているのと同じ。
それが疑うこともないほど深く根付いている場合、自分らしく生きるということに気づくのはとても難しくなってしまいます。
サッカーのコートの中では、サッカーのルールに従ってゲームが行われます。
そこにルールがなければ、時間制限も、人数制限もない、平等性が失われた、勝ち負けもない、ただ大人数がボールを求めて暴走するといったカオスな状況になってしまいます。
しかしサッカーのルールは、コートの中での秩序を守り、気持ちよくグラウンドで試合をするためのプレイヤーのための共通認識ではありますが、個人の人生まで縛り付けるものではないはずです。
秩序や道徳を維持するための共通ルールは、決して私たちが自分らしく生きていけないように縛り付けるものではないはずです。
それでもまだ自由を奪われていると感じるのなら、自分が「他人という集合体の意識」=「社会的な平均」を正しいものだと認識してして生きていないか、心に問いかけてみて下さい。
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